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コラム

第九十四回 戦後70年、空腹と貧しさに耐えた時代
相談役 最上 恒夫
 「最大の敗因は戦争をしたことだ」
 終戦の2か月後、作家の菊池寛は自ら創刊、経営する雑誌「文藝春秋」の復刊第1号でこう断じ、「この軍閥専横を許した国民全体の責任」とも記した。彼は同社解散を決意、翌年6月、残った社員で新社を引き継いだ。
 敗戦は日本の産業、国民生活に壊滅的打撃を与えた。

 今年の夏は日本列島丸ごと極めつきの暑さとなった。昭和20(1945)年8月15日の太平洋戦争終結の日も大変暑かった。空襲に備えて前夜から防空壕に泊まり込み、昼近く目が覚めて壕の外に出たとき、目眩するほどの暑さだったことを覚えている。暫く時間が過ぎて敗戦を知らされたが、当時国民学校(小学校)の1年生には、それがどういう意味なのか直ぐには理解できなかった。しかし、もうこれからは夜昼なく逃げ回らなくてよくなったのだと、青い空を仰ぎ子供心に安堵感と開放感を覚えた終戦の日のことは忘れることはない。
 あの日から70年。この節目を迎え、二度とあのような悲惨な戦争をしてはならないと、各地で不戦の誓いの行事をはじめ、出版界や新聞、映像メディアが競って特集を組むなど、例年にない意識の高揚をみせた。
 終戦前後の時代を経験した誰もが口にするのが、空腹の記憶である。すでに戦前から米不足は明らかで、官民挙げて節米運動が行われていたが、開戦時は食料や衣料など殆どの生活必需品が配給制に移行していた。砂糖、マッチを皮切りに、育児用乳製品、米、小麦粉、酒類、燃料、食用油、卵、野菜、魚、塩、醤油、味噌など重要食料品ばかり、それも戦況の悪化とともに遅配、欠配が日常化し、国民の窮乏は一段と深まった。しかも終戦の年が大正、昭和期を通じて最大の凶作だったことが、その後の食糧事情を一層悪化させる原因となった。
 戦中戦後の数年間、誰もがひたすら空腹と貧しい生活に明け暮れ、至るところ浮浪者のような姿の人々で溢れていたのが目に焼き付いている。思い起せば白米飯を食べた記憶は殆どなく、来る日も来る日もジャガイモとカボチャの煮物に味噌汁ばかりだったような気がする。

 終戦の1年前、本土への空襲を避けて、東京はじめ大都市から地方への集団学童疎開が開始された。国民学校5年生だった歌手のペギー葉山さんは、東京から福島県大野村(現いわき市)の旅館に集団疎開し、翌春、南会津郡田島町(現南会津町)に再疎開して終戦をそこで迎えた。そのときの体験をこう語っている。
 「都会育ちのため山に囲まれた生活は新鮮で、当初はみんな川泳ぎなどで楽しんでいたが、次第に下級生達が『寂しい、帰りたい』と涙を浮かべるようになり、布団の中ですすり泣く子を励ましたりしていた。戦況の悪化につれ、次第にご飯の量も減り、おかずにゲンゴロウの煮物が出るようになった。お腹を減らして歯磨き粉を食べる子もいた。私自身も空腹の思い出ばかりが残る」(読売新聞社「昭和時代、戦前・戦中期」)。
 もう1つ。脚本家の倉本聰さんも国民学校4年生だった同じ夏、東京から夜行列車で山形県の上山(かみのやま)町に学童疎開した。そのときの体験を先月8月の日本経済新聞「私の履歴書」のなかで振り返っている。
 「親元を離れるのはやっぱり心細い。泣き声は40人のクラス全員に伝染した。集団生活が始まったが、腹が減って仕方がない。主食はサツマイモ。筋っぽくて甘みに乏しくてうまくない。ヒエやアワも主食だった。満州からの黄色いコーリャンに大根を混ぜた薄い雑炊もよく出た。カエル、ヘビ、バッタ、ハチなど何でも食べた。甘い物への渇望がすさまじく、絵の具までなめた」。
 当時、私もヘビや蚕のサナギを食べたことがある。さすがにカエルはなかったが、サナギは製糸工場で生糸を巻き取った後の栄養分の残っているものが養鯉用の餌に使われていたのを貰い受け、フライパンでカリカリに炒め塩をまぶしたのをよく食べたものだ。適度な油と塩分の混じった結構な味で、蛋白質不足を補う貴重な存在だったように思う。虫であれ野草であれ、食べられるものは何でも口に入れた時代だったのである。

 「味噌は戦時耐乏生活にとって国宝的食料である。欧米諸国の牛乳やバター及びチーズ等は、束になっても味噌には及ばない」
 と力説したのは、わが国農業経営経済学の草分け的存在であった農学博士、大槻正男京都大教授である(「味噌談義」文藝春秋昭和20年3月号)。
 食糧事情が切迫する現下、最も不足する蛋白質栄養を動物質食料以外の食料を以て補給するには「畑の牛肉」とも言われる大豆加工品食料が最も賢明な実現可能な方策であるとし「大豆はすべて味噌に醸造すべし」「味噌の配給量を制限するな」と味噌の効用を説いた。実際、林業関係の専門家によると、東北地方等の積雪地で冬期間、山ごもりの仕事に出る場合、必ず持って行く物は米と味噌だという。これさえあれば、積雪下の山菜を汁の実にしながら数ヶ月の重労働にも耐えられるそうだ。
 当時、農林省の食糧管理委員会の委員でもあった大槻博士は、戦時食糧問題の解決には「イモと大豆が唯一の鍵」とまで言って、国民の栄養確保を唱え続けていた。

 国の調査では、国内でまだ食べられるのに捨てられている食品の量は年間約640万トン、その半分は家庭からの廃棄で殆どが焼却されているという。70年前、飢餓の淵をさまよい世を去った人々は、どう思うだろうか。
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